私のたられば。
せっかくはてなでブログを始めたので、一回くらい定められたテーマでも書いてみようということで。
皆がすなる「今週のお題」といふものを、私もしてみむとてするなり。
今週のお題は「私のたられば」とのこと。
『たられば』って、一体いつから市民権を得た言葉なんでしょうね。さすがに土佐日記の時代にはなさそうな気がするし、比較的新しい言葉なのかなぁとは思うんですが。
そして、使われる際に「考えても無意味なこと」というニュアンスが伴う様になったのはいつからなんでしょう。言葉として使われ始めた当初からそうだったんでしょうか。
私の、たられば。
あのとき、◯◯れば。
私の中で上記に当てはまる1番大きな出来事は、大学で留学したことです。
たまに、思うんですよね。
留学したはいいものの、留学先でもあまり周りとコミュニケーションを取らず、英語の読み書きの力についてはそれなりに伸びたけど、話す力は全然伸びなかった。かといって、学問に全力で勤しんだのかというと、それもノー。それなりに授業に出て、それなりに友だちと過ごし、一応卒業に必要な単位を取り終えるという、わりとボンヤリとした時間を過ごしてしまった4年間。
果たして、あの留学は意味のある選択だったのか。
全力でやりきったという思いがない分、あの時代のことを振り返ると、わりと引け目を感じてしまいます。
「あのとき留学なんてしなければ」、親に多大な学費を支払わせることもなかった。
「あのとき留学なんてしなければ」、職場で留学経験者として期待される英語能力と実際の自分の能力のギャップに不安を感じることもなかった。
「あのとき留学なんてしなければ」。
ただ逆に、留学して良かった面ももちろんありました。
「あのとき留学をしていなければ」、英語の読み書きの力も今ほどには持っていなかったかもしれない。
「あのとき留学をしていなければ」、留学先で出会った人には会うことはなかっただろう。
「あのとき留学をしていなければ」。
結局のところ、どんな選択にもプラスとマイナスがあって、自分で実際に選んだ行動の先で得たもの以外は、経験できなくて。
なるほど確かに、「たられば」なんて考えても現実に何も影響を及ぼさない、だから無意味なんだって、当たり前の結論になってしまうんですけどね。
でも、これもまた手垢がつくくらい言われてることですが、過去は変えられないけど、これから先の未来ことは確定していないんですよね。
以前の自分の選択で「ああしていれば」と『今』悔やむことがあるのなら、『未来』では違うことを思える様、これから先の行動を変えることはできる。
もちろん場合によっては「〜れば」の部分が取り返しのつかないことだったりもするかもしれないんですけど…それでも、未来はまだ確定していないから、結局のところ、いつだって『今』どうするのかが大事なんだろうなと。
そうは思っても、この先も、上手く行動できなかったり、「また選択を間違えた」と感じることがあったり、色々とままならないこともきっとあることでしょう。
でも、一旦過去の選択を悔やんでみて、そのあとで未来のことに想いを馳せると、やっぱりどうにかして、ほんのちょっとでも、「過去」より「今」よりマシな「未来」だと良いなぁと思うのです。
これから先の未来がいずれ『今』になったとき、少しでも「今」の思いより明るい気持ちになれる『今』であってほしい。
だから、たまには過去の『たられば』を考えて、凹んだりして、いやでもまだこれからだって思ったりして、そんな風に上手く活動源にしていければ、少しは『たられば』も意味のあることになるかもしれないなぁ。
とまぁそんなことを思った、今週のお題でした。
ちなみに、下記の三省堂の記事によると、『たられば』は1970年代後半にその原型となる言い方がされ始め、90年代に広まったそうな。
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2009/08/05/『三省堂国語辞典』のすすめ-その79/
思った以上に新しい言葉でした。笑